日々モロ

あれから14年。あの日、仙台に居た。(前編)

最近、小さな手帳に日記を付けている。

何てことない日常の日記だ。このブログにアップするまでもない、くだらないことを多く書き留めている。(実際は体温や体調などの記録が本当の理由であるのだが、、、。)

そして今日、2025年3月11日。

今日もまた何かか書こうとした時に、何気に「ああ。今日は311か。あの日、仙台に居たなあ」と思い出した。

そして、あの日のことを初めて書き残してみる気になった。

あの日の14時46分。僕は仙台駅の地下鉄のホームに居た。

その前日、僕は大阪に居た。

その当時メインの仕事としていた「スターライト・レゲエ・フェスタ・イン明宝」の準備で、在大阪のプロダクションなどへの挨拶回り、根回し、打合せ等で、主催のラディックス・エンターテインメント社の人たちと一緒に、名古屋から車で日帰りの予定で来ていたのだ。

その車中で、Twitterを見ていたスタッフの1人が、かつて「レゲエ・マガジン」の編集長をされていて、当時、MEGARYU、lecca、PANGといったアーティストのプロデューサーとして活動していた加藤学さんが亡くなったというツイートを発見した。PANGのツイートだった。亡くなったことと葬儀の日程を告げていた。

それを聞いて少なからず僕は動揺した。

加藤さんは、かつて「レゲエ・マガジン」の編集長時代に、僕をライターとして使ってくれた最初の人だった。言わば音楽の仕事を始めるきっかけをくれた大恩人のひとりである。それが無ければその後20年以上に渡ってその仕事をすることは出来なかった。

その後も、小さなレコード会社でディレクターをしていた僕に、結構厳しいダメ出しをしてくれる唯一の存在だった。加藤さんからのダメ出しが僕に反省を促し、そこへの反発心が僕を鍛え、僕の土台を作ってくれたのだ。

メチャクチャ煙草を吸う人だった。ハイライトに火を付け、2〜3口吸ってすぐに火を消す。飲み屋で灰皿がたちまち満杯になる。そんな人だった。数年前に肺癌を患って、郷里の仙台に戻っているという話は聞いていたが、会社を離れて、小田原/名古屋を行き来する生活をしていた僕は何も出来ないでいた。

「葬式に行かなくちゃ、、、。」

そのまま最寄りの駅近くで車を降ろしてもらい、新大阪駅に向かい、その足で小田原に戻った。

その時のタイミングは、僕は仕事で名古屋に1週間ぐらい滞在する予定だったので、ゆっこさんはお義母さんと母娘水いらずで韓国旅行に行っており、小田原の家には不在だった。

前職の会社アルファエンタープライズでの僕の上司である社長の小林さんと連絡を取り、翌日一緒に仙台に向うことにした。生前の加藤さんには本当にお世話になったので、葬儀の手伝いもしようということになり、少し早めに会場に到着出来る様な時間を設定していたのであった。

翌日。2011年3月11日、金曜日。

東京駅での約束の時間に小林さんは間に合わなかった。致し方ないので「先に行って会場で待ってます」と電話で告げて、僕は単身仙台に向かった。時刻は正午近くの便であった様に思う。

仙台に到着して、地下鉄のホームへと移動する。仙台で地下鉄を利用するのは初めてだった。新幹線が発着する仙台駅から地下街をかなりの距離を歩いた様に思う。

その翌日はJリーグの開幕戦が予定されていて、地下街にはベガルタ仙台のホーム戦の大きな看板があり「王者名古屋を迎え撃て!」とデカデカと書かれていたのを覚えている。前年ストイコビッチ監督体制で名古屋グランパスがJリーグ初優勝していたのだった。

地下街から更にエスカレーターで深くまで降りたところに地下鉄のホームがあった。そこから10駅程行った「泉中央」という駅が目的地だ。時間にして15分程度の行程のはずだった。

揺れは突然来た。

大きな揺れだったが、揺れてる最中に人は大声など発することは出来ないのだなと思った。「おお」みたいな唸り声ぐらいしか出ないのだ。

照明が消えて一瞬真っ暗になる。その時の「キャ」と言う女性の短い悲鳴が耳に残った。

バシバシっという音と共に非常電源に切り替わって照明が付いた。まるで映画のワン・シーンの様だった。揺れは強弱を付けながらゆらゆらと続いた。

構内が崩落することを警戒しながら「今オレは地下にいる」と思った。生き埋めになることを真っ先に想像したのだ。

「動ける!」と思った瞬間に止まっているエスカレーターを駆け上がっていた。とにかく地下に閉じ込められることが恐怖だった。

地下街を走った。

ベガルタ仙台の看板の横を再度走り抜ける。地上への階段を駆け上る。地上に無事出れたことにひとまず安堵した。

今にして思えば、地下鉄構内の耐震性能はかなり高かったのだと思う。どこも大きく壊れたり崩れたりした光景を目にすることは無かった。あのホーム上で、僕の視界に入る範囲の中には怪我人はいなかったし、大きな破損も見えなかった。

それは良かったと思うのだが、あの時、正直、僕は周囲のことなど全く気遣う余裕など無かったのだ。

駆け上がって躍り出た地上は、駅前から続く4車線の広い目抜き通りだった。中央分離帯には大きな街路樹が立っていた。

まだ時折グラグラと地面は揺れている。多くの人が路上で避難していた。

見上げると近くのビルの壁面に窓掃除のゴンドラが揺れていた。人も乗っている。あそこに居た人はあの後大丈夫だったのだろうか?自分の身も心配しつつも、頭上のゴンドラも気になる。

ビルのガラスが割れて落下してくることを警戒して中央分離帯に移動する。

携帯を取り出す余裕が生まれ、ひとまず姉に発信する。ゆっこさんは韓国だったからだ。だが「プー、プー」とは鳴るが不通。メールで無事を発信すると、一応、送信出来た。このメールが無事飛んで行ってくれていることを信じるしかない。

しばらくの間はその中央分離帯に居た。

地震発生から30分ぐらいは経っていただろうか。とにかく帰るためには新幹線に乗らないと、と思い、余震の間隔が長く感じられる様になってから、仙台駅に向かった。

駅に入ってすぐの吹き抜けの大きな広場は天井のガラスが崩れていた。見た瞬間に新幹線どころの話ではないと理解した。「これでしばらくは帰れない」そう思った。

次に考えたのは人が多く避難しているところに行って情報を収集しようということだった。

どこをどう歩いたかは不明だが、広域避難所として近くの小学校があったので、そこの校庭に一時身を寄せた。

校庭の中央には防護頭巾を被った小学生たちがクラス毎に並んで座って待機していた。周囲には僕同様に避難してきた多くの人々。大きな犬を連れた人も居た。

小学生たちに向け先生が「今日の宿題は無しだ」みたいなことを告げると、子供達は「やったー!」などと無邪気なことを言っていたのだが、今にして思えば、その時、津波はとっくに東北沿岸を襲っていたのだった。

あの時、あの校庭で、どれだけの人がその事実を既に掴んでいたのだろうか?僕にはほとんどの人々がまだ知らなかったとしか思えない。

当時、まだiPhoneを使用してなかった僕はネットにも行けず、全く情報が無かった。

夕暮れが近づいて来ていることを感じた。雪がチラホラと舞って来た。このままでは埒が開かない。

地下鉄で15分の距離なら歩いても2時間ぐらいで行けるのではないかと判断し、僕は葬儀場のある泉中央に向かうことにした。1泊か可能なら日帰りしようと思っていた僕は既に喪服を着用しており、その上にダッフル・コートを羽織って、革靴の状態。でも歩くしかない。

交通標識で「泉中央」と指示された方角にひたすら歩く。駅前の市街地はそうでも無かったが、歩くに連れ、アスファルトが盛り上がっている路面や、自動車販売店の大きなガラスが粉々に割れている惨状なども目に入り始めた。一時的ではあったが雪も本降りになった時間帯もあった。

歩くこと3時間ぐらい。奇跡に近い気がするが、僕は加藤さんの葬儀が予定されていた斎場に辿り着いた。日もとっくに暮れていた。

内部に入ると「加藤家」と書いてある看板だけはあり、祭壇の準備っぽいことはしてあったが、花など何もない。周囲にも誰もいない。もしかしたら家族の方や、僕以外にも葬儀に参列する人が居るかも知れないと僅かに期待していたのだが、それは無かった。

寒さと疲労もあり、若干途方に暮れる。

しばらくすると、その斎場のスタッフの女性の方が現れた。ご家族もご遺体も含め、僕以外まだ誰もここには来ていないと言う。

なんてこった。まんまとオレだけ仙台に辿り着いたみたいだ。事情を話すと参列者用に押さえてあるホテルがあるのでそこ連れて行ってくれると言う。

有難い。それしか無い。そこに行く以外、その時の僕にはどうしようもなかったのだ。

夜の道路は全ての信号が消えていて、大混乱の最中だった。

渋滞の中、1時間ぐらいかかっただろうか。そのホテル「ルート・イン仙台泉インター」に送り届けてもらったのは、おそらく午後8時ぐらいだったのではないかと思う。

あの時の葬儀場の女性スタッフには本当に感謝だ。だって、あそこであの時間にたまたまあの人が居なければ、僕は多分あの斎場に潜伏して、しばらく過ごしたことだろうと思う。何だったんだろう、あの人は。神様か。

ホテルの正面玄関の前、車寄せの屋根の下に、30人ぐらいの人々とホテル・スタッフが集まっていた。

まだ建物内に居ることは危険と判断したホテル側が、宿泊客に対し、待機を要請していたのだ。確かにまだまだ大きめの余震が続いていた。いつ何時、本震と同レベルかそれを上回る揺れが来るとも知れない状態ではあった。

おそらくそこから3時間近くはホテル前に待機していたと思う。

日付が変わる少し前ぐらいに我々は客室に通された。ドアは開けっ放しにして、服も脱がずに過ごして下さい、とホテル・スタッフは念を押して言っていた。

その夜はそれぐらいみんなが緊張していたのだ。

部屋に通されたが停電しているので照明もテレビも付かないが、一応バチバチとスイッチを入れてみる。

靴だけ脱いでベッドに横たわった。疲労困憊である。暖房も効かないが、外よりはマシである。すぐにウトウトし始めた。

するといきなり携帯が鳴った。姉からであった。

しかしその時の僕は疲労困憊の寝惚けた状態で、まともな思考が出来ていなかったのだと思う。

僕は姉の電話に「今やっと寝たところだったのに」ぐらいを答えて、切ってしまったのだ。

その後電話が繋がることは、仙台にいる間中一度も無かった。たった一度のチャンスだったのにも関わらず、だ!

あの時は本当ごめん、お姉ちゃん。

しかし、これで少なくとも無事は伝わった。数時間だったと思うが眠りに就いた。

夜明けと共に目覚めた。6時ぐらいだったのではないだろうか。まだ警戒感が残っているので、さほど眠くないのだ。

PCは持って来ていたが、ネットには繋がらない。

本は1冊だけ、超分厚い京極夏彦の「魍魎の匣」だけ読み返してる最中だったので持ってきてあった。

しかしそんなもん読む気にもならないので、漫然ともせずに過ごしていると、突然テレビが付いた。電気が復旧し、昨夜スイッチを入れっ放しにしておいたテレビが付いたのだ。

そしてそこに映し出された映像に僕は驚愕した。

「何だ、これは、、、。」

その時、僕は始めて、あれだけの大きな津波に東北地方が襲われたことを知ったのだった。地震発生から18時間ぐらいが経過してからのことだった。

津波の映像を惚けた様に見つめること30分ぐらい。はたと正気に戻った僕が最初にしたことは、ポットにお湯を沸かすことだった。タオルで身体を拭くためだ。

この電気の復旧ももしかしてこのホテルだけのことかも知れないし、いつまで持つかも分からない。身体を拭ける時に拭いておかなければ不衛生だ。

サッパリしたところで気持ちが落ち着いてきたら、空腹に気付いた。そう言えば新幹線の中で崎陽軒のシウマイ弁当食べて以来、何も食べていない。

僕の部屋は3階ぐらいだったのだが、窓から外を見ると、割と大きめの幹線道路がホテルの前を走っており、道路を挟んだ向かいにファミレスがあった。そこに「牛タン・シチュー500円」と手書きの急拵えの貼り紙が出ていた。おそらく食材を使い切るための方策だったのだろう。

速攻、僕はそのファミレスに向かった。

牛タン・シチュー掛けライスを500円で食べて、この被災の最中、仙台名物など食べられる訳ないと思っていたのに、あっさり食べられたことに少々拍子抜けしていた。

店を出て道路の先を見るとコンビニがあった。「今のうちに買い出ししなければ!」そう思ってコンビニに向かう。

店内はビックリするぐらい既にも何も売ってなかった。

しょうがないので、パンツと肌着を買った。水もドリンク類も酒もほとんど無かったが、紙パックで1.8ℓの「さらりとした梅酒」がまだ売っていたので、それを買った。

ホテルに戻ると何となくみんな落ち着きを取り戻している雰囲気を感じた。

ホテル・スタッフも一応は働いており、我々は客扱いはされていた。

もう腹は括っていた。焦っても出来ることは何も無い。

夕方近く、また腹が減ったと思い、さてどうしたものかと思案して、ロビーに降りてみると、貼り紙があり、「ささやかですが食事を用意しました。1階レストランでお召し上がり下さい」とあった。

「マジか!」と思い、レストランに向かうと、セルフでサーブするスタイルで、大きな寸胴鍋と小さば鍋やらが用意されていた。

正確にはどんなメニューだったかは覚えていないが、ショート・パスタの入ったトマト味のシチュー的なものと、マッシュポテト的なものと、パンだったと思う。有り難く頂いた。

ホテル・サイドが言うには、今後も出来る限り宿泊客には3食食事を提供すると言う。

これで食事にすごく困ることは無くなった。相当な困難も覚悟していただけに、僕はまたまた少し拍子抜けしてしまった。

数時間後、再度レストランを覗くと、まだ食事が残っていたので、もう一回食べて、梅酒飲んで寝た。

こうしてその後、1週間に渡る僕の被災生活は始まったのであった。(続く。)


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